一穂ミチ著「光のとこにいてね」の読書感想

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レビュー:★★★★☆
以下の感想の中に物語のネタバレ(内容)が一部含まれる点をご了承ください。

 鬱々とした物語で、光の届かない薄暗い整備されていない道をさまよっているようだった。最後に光が射したような気がするが、希望というほどのものではなかった。明るい未来よりも過ぎ去った何ものにも代えがたい若さに私は思いをはせてしまう。それほど果遠の過去には思うところがあった。
 正直、「感動の最高傑作」とか「最高純度の奇跡」という感想はなく、むしろ感動や奇跡に関しては幼稚な物語にすら感じられた。結珠と果遠の運命の出会いから始まる百合の物語だが、運命や奇跡が連発すると白々しく感じられ感動として受け止められたなかった。感動や奇跡ではなく、経済的格差や固定されたヒエラルキーなどの現実を知らしめる哀しい物語だった。
 本書で運命と感じたのは、結局、結珠と果遠はそれぞれの母親と同じような道を辿ることだ。
 町田そのこ著『52ヘルツのクジラたち』が好きな人は、本書をきっと好きになるだろう。表面的なお涙頂戴感動を欲している人や中高生などの若年層向けの作品だと思った。家族関係で悩んでいる中高生の手助けとなる書になりうる。

 果遠の神童っぷりや結珠の休職の曖昧さなど稚拙な設定が読んでいて気になった。この二人の物語が、本筋なのだが上記で述べたとおりあまりしっくりとはこなかった。結珠の母親の発言や経緯とスピンオフ青い雛を読んで物語として納得できるものとなった。運命というなら、果遠の父親が実は504号室の男で、だから結珠は遺伝的、潜在的に惹かれ血は争えないといったぐらいの運命(伏線)が欲しかった。幼稚な運命や出来事の中にあって、結珠の母親の存在が物語の中でリアルさを感じさせてくれた。結局、光のとこにいる人間は光のとこに居続け、影のとこにいる人間は影のとこに居続けるのだろうか。光と影とは、生まれ育った環境つまり経済的な裕福さの差だ。類は友を呼ぶで結婚相手も似たようなヒエラルキーにいる人間だ。物理的に光がないところに影がない。影が光に近づくと歪が起きる。最後に光と影が交わる可能性は感じられたが、歪を解消する希望までは本書に感じられなかった。光のとこにいる結珠は自己実現の欲求という高次元の欲求に悩み、影のとこにいる果遠は生理的欲求や安全的欲求という低次元の欲求の中生き続けた。運命とか奇跡とか帯で謳っている割に、光と影の逆転は起きず果遠は影のまま天才的な頭脳を披露する場がなく、結局家族とは縁がないのは残酷である。結珠に関しては、設定通りお嬢様だった。それだけだ。小学2年生のときから変化は感じらなかった。変わったことといえば、自動車が運転できるようになったことだろうか。それは特別な事ではなく、人格形成に親が及ぼす影響は少なからずありそんなものである。この物語の物足りなさは光にあった。持っている人間の無自覚さや恵まれた環境のありがたみに感謝することを逆説的に本書に教えられた気がする。そして、本書に登場する夫という職業のただの鞄持ちでしかない男たちに憐れみを抱いた。
 
 本書のメッセージは、恵まれた人間への「当たり前じゃねぇからな!」という戒めだ。
冒頭が結珠の母親の視点で始まっていたら、星5にしていたかもしれない。
<参考文献>
光のとこにいてね 一穂ミチ 文藝春秋 2022

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