石沢麻依著「貝に続く場所にて」の読書感想




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私は、この小説を2回読んだ。
しかも、何度も読み返しながらである。
なぜ2回読んだのか、それは頭に中々話や情景が入ってこなかったからだ。
土地勘のないドイツ、教養のない西洋美術、死者が普段の生活にいる異世界、そして高尚な文章と私にとっては読書というより、高校国語の現代文読解をしている感覚だった。

そして、2回読んでも感想はあまり変わらない。
本書の内容は、最後の10ページで事足りるのではないだろうか。
私はせっかく時間をかけてあまり間を空けずに2回も読んだのだから、何らかの形で残そうと思い今このブログを書いている。
本書も同じなのではないだろうか。
東日本大震災を経験した。だがしかし、津波や原発で被害にあった人、あっている人に比べれば大した経験、被害ではない。そして10年経って忘却してきている。忘却する前に何か残しておきたい。その結果、東日本大震災がメインとは言えず、無理矢理に自分の世界に持ってきて空想の世界を創作した作品となったという印象を持った。

東日本大震災と聞くと、やはり津波の被害が連想される。
本書の主人公は、津波の被害はなく、また家族等の大切な人を亡くしたわけではない。
大学の後輩が、東日本大震災の後、津波の被害に遭い行方不明のままになっている。
その行方不明になっている後輩が主人公のいるドイツまで会いにくる。
この行方不明という表現もまた難しい。
実際に今も行方不明のままになっている人の捜索は行われているから、断定した表現には気を使ってしまう。
この後輩は特に親しかったわけではないし、異性であり、通常であればわざわざ会いに来るわけがない。
主人公を具体的に東日本大震災の甚大な被害と結び付けられる対象がこの特に親交があったわけでもない後輩だった。
だから読んでいて、その後輩(野宮)の登場は個人的に不自然だし、ドイツが舞台で物語が繰り広げられている創作と私小説の堺を曖昧にし、空想の世界の必要性がわからずにすんなりと理解しにくかった。抽象的な比喩の意味がわからないと言うのではなく、それが結論部分や全体のテーマに必要なものだったのかと思ったのだ。
思うに10年間東日本大震災に向き合ってこなかったということは、向き合う必要がない人だったということだ。
それだけのことを、どうにか当事者として東日本大震災を捉えて物語にしようとすると本書のような作品になるのだと思う。
もちろん震災の記憶を風化させてはいけないと思う。
ただそれは自己満足のためとは違う。震災の教訓や今後の防災・減災として未来の誰かのために必要なことだからである。また、犠牲を無駄にしないためでもある。

本書の感想としては、壮大な自己満足・自己完結の物語であった、そこからは自己陶酔にも近いものを感じた。真っ直ぐとして伝わってくるメッセージはなかった。
ただこれは、東日本大震災を語っていいのは、津波などの被害に遭った当事者や対応にあたった自治体職員や自衛隊員など過酷な体験をした人だけだという思い込みが自分にあるのかもしれない。
また、メディアで取り上げられるのは、大切な人を失った人や家が流された人などのエピソードがほとんどあり、感覚が慣れてしまうというかおかしくなっているのかもしれない。
東日本大震災の一般人への情報公開ではないけど、一般の人でも東日本大震災を語っていいはずだと10年を機に口火を切った作品と考えれば、作者の背負った覚悟に敬意を表さないといけないとも思った。

高尚な言い回しや比喩の世界が文学と言われれば、そうなのかもしれない。

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