朝井リョウ著「正欲」の読書感想




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レビュー:★★★☆☆
率直な感想は、期待外れだっただ。
このように語弊を恐れずに言えることも大切だと本書に言われたような気がする。
本の帯に書いてあって「読む前の自分には戻れない」ということは全くなかった。
何にそんなに影響を受けるのだろうか?
朝井リョウ氏の作品は好きで今まで読んできた。
私の朝井氏への期待値が高すぎた。
本書を読んでいて特に気持ちが動くこともなく、心拍数は一定のまま平坦に読み終わってしまった。
本書は結末を冒頭に持ってきていた。
いつもの朝井氏の作品なら最後に山場が来て、伏線の回収があり意外な結末で終わるので最後の最後まで気は抜けず飽きが来ない。読書後には何とも言えない胸のざわつきがある。
今作は、結末は最初に分かり、特に最後に山場もメッセージもなく終わってしまい全体的な“繋がり”がなく伏線らしきものもなかった。
冒頭の結末をひっくり返す何かがあるのではないか期待していたが、何もなく何もないことに驚かされて読み終わった。
正欲というタイトルもあまり捻りがなく、正しい「正」の字を性欲の「性」にかけ、マジョリティー側で正しい側にいるとされている人たちの性欲という意味だろう。
本書のあらすじは、性的指向の少数派の生きづらさについて書いた作品だと思う。様々な立場から書いていて多様性はあるが、多様性の尊重は感じられなかった。

本書の内容については主要な登場人物である検事・寺井啓喜の言ったセリフ
「特殊な欲求を持つ人間だからって、何をしてもいいわけじゃない」
「どんなに満たされない欲求を抱えていたって、それを社会にぶつけていいわけじゃない」
「それは誰だって同じだ。どんな種類の欲求を持っている人間だって、法律が定めたラインを越えたならば、それは、罰せられなければならない」P307 1,3-4,6-7行目
に尽きるのではないだろうか。
これが迫害だったとしても、否定はできない。

ダイバーシティについて改めて定義を調べたところ、経済産業省でダイバーシティ経営の定義を公表していた。
以下は引用である。

『ダイバーシティ経営の定義
経済産業省では、ダイバーシティ経営を「多様な人材を活かし、その能力が最大限発揮できる機会を提供することで、イノベーションを生み出し、価値創造につなげている経営」と定義しています。
「多様な人材」とは、性別、年齢、人種や国籍、障がいの有無、性的指向、宗教・信条、価値観などの多様性だけでなく、キャリアや経験、働き方などの多様性も含みます。
「能力」には、多様な人材それぞれの持つ潜在的な能力や特性なども含みます。
「イノベーションを生み出し、価値創造につなげている経営」とは、組織内の個々の人材がその特性を活かし、生き生きと働くことのできる環境を整えることによって、自由な発想が生まれ、生産性を向上し、自社の競争力強化につながる、といった一連の流れを生み出しうる経営のことです。
経済産業省「ダイバーシティ経営の推進」
<https://www.meti.go.jp/policy/economy/jinzai/diversity/index.html>』

「多様な人材」のところに多様性の記述がある。
ここに確かに「性的指向」と記載されている。
多様な「性的指向」について世の中に理解があるかどうかは、分からない。
公の場では、発言できる内容はある程度決まっているので、本音であるかどうかは分からない。馬鹿正直に言って炎上するのは避けるだろう。
だから、本書についても感想を言い難い部分はある。
本人が苦しんでいるなら、苦しいんだろうし、言いたくないのに無理に言わせることはできない。
主要な登場人物についての率直な感想は、全員自分の考えに固執し、考えを押し付けたり、意固地になっていて多様性の寛容さは感じられない。
ただ、本人にしか分からない苦しみがあると言われれば、当事者でない者は通常それ以上何も言うことはできない。
本書では、そこに踏み込む者もいれば、バグとして鼻から相手にしない者もいるし、異常者として揶揄する者もいれば、分かっている体で接しお節介を焼く者もいる。
しかしながら、そっとしておいてあげる理解ある主要な登場人物はいない。
結局は、いづれの人間も「特別さ」を際立たせているのである。
心を閉ざしているマイノリティ側にも問題がないわけではないみたいなことを言うとそれはそれでいじめの話みたく問題となるから難しい。
もちろん法に触れる性的指向もあるだろうから、言えないこともあるだろうがそれを擁護するのも難しい。
何でも受け入れるのが正解とは思わないが、私に見えていない世界があることもまた自覚しないといけないと思った。

そもそもとして作者の朝井氏の作品は男性は女性とのセックスのことばかり考えているみたいな偏った設定が多い。特に「部室セックス」という言葉が本書には登場しないが、朝井氏の作品で何度か目にした。部室セックスをしたことがある人なんて、世の中の何%くらいの人だろうか。これは極端な例を出しているが、セックスの話をオープンにしたがる人もいればそうでない人もいるのは当然である。そもそもとして、異性が好きだからと言って、全員がパートナーを得られるわけではない。本書を読んでいて、随分とまた極端な書き方をしているなと思った。朝井氏の作品は、陽キャ(クラスの陽気な活発なグループ)側を前提として書いているところに偏りがある。結婚して家庭を持つことが社会人として常識みたいな価値観を持っている人はいるし、それを御旗のごとく掲げて押し付けてくる人もいる。その価値観に困っている人は、マイノリティに限らない。だがしかし、これを異性が好きな人間が言うとまた分かっていないとなり、堂々巡りとなる。
だから、結局「法律が定めたライン」で議論するしかない。
また、本書では「通常ルート」という言葉が出てくるが、「通常とは?」「通常ルートから外れたらバグなのか?」と言い出したらまた切りがない。

本書を読んでいて、エヴァンゲリオンのATフィールド(心のバリア)が常に頭をよぎっていた。他者と分かり合うことは誰でも難しいってことでいいんじゃないだろうか。
本書の具体的な内容に言及すると、諸橋大也に関しては気の毒に思うところがある。諸橋大也に関して説明すると、水に性的指向があり男性にも女性にも性的指向がない大学生である。そして、イケメンゆえに女性からストーカー行為にあっている。多様性だなんだ言ってとにかく近づくためになりふり構わずATフィールドを突破してこようとする女性がいる。
この女性は、やっていることはストーカーと変わりないのに自分は正しいことをしていると疑いがない。好きな言葉は「多様性」とばかりに、学園祭等で多様性を推し進めようとしているが実は見えない他者への尊重が欠如している。本書のメッセージがあるとすれば、多様性を網羅するのは難しいし、推進できる人っているのだろうかというだと思う。
諸橋が学生時代に周りの同調圧力に苦しめられるのは分かるし、イケメンではなかったら余計な気苦労をしないで済んだだろう。そして、完全なもらい事故で逮捕されてしまうという不遇の諸橋大也には同情してしまう。諸橋はようやくATフィールドを開こうとしたが、開こうとした相手が悪かった。
まぁ学生が大人に騙されるのはよくある話だ。
親子であっても分かり合うのは難しい、これはエヴァンゲリオンが示してくれたことだ。
本書では、寺井啓喜と泰希親子は全く分かり合えていない。
小学校生が、学校に行く行かないも多様性というか選択の問題かはケースバイケースとしか言いようがない。泰希が学校に行かない理由は分からないし、泰希が某不登校革命家youtuberに影響を受けてやっていることに賛成できるかは別問題だ。どうでも良いと言ってしまえばそれまでだが、SNSで簡単に自分の都合の良い意見を見つけることができるのは情報社会の問題点であり、情報リテラシーが低い子どもたちを保護する必要があるだろう。
一方で、救われる人たちもいるので結局SNSの利用促進の良し悪しもどちらとも言えないと歯切れが悪くなる。

本社に関しては歯切れが悪くなる問題を取り上げたので、帰結として当然歯切れの悪い作品となったという感想だ。作家生活10週年作品なのだから、湊かなえ氏の「未来」のようにもう少し攻めても良かったのではないだろうか。高校生や大学生の青春の葛藤を書くのは秀逸だが、それ以外のテーマについては得意ではないのだろうか。

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