井上ひさし著「青葉繁れる」を読んで~仙台一高説から読む~
レビュー:★★★★☆
1.はじめに
井上ひさし氏の作品を読んだのはこれが初めてだった。
しかしながら、初めて読んだ気はしなかった。
なぜなら、文章の表現や文体は馴染みのあるものだったからだ。
読みながら合点がいった。宮城のインテリ気取りのやつらの文章の起源はここかと。
やつらは、どの時点かでこの本を読んでいたのだろう。
文集等で何度もこの妄想に飛んだり、斜めを向いて気取ったりした表現は見てきた。
松島のくだりがなければ、宮城ひいては東北において現在でももっと周知され、文化史的な側面を持ったものとなっていただろう。
以下ネタバレを含む感想である。
2.感想等
物語は、昭和の古き良き時代。茶畑にあるかつて東北一の進学校であったエテ高(仙台一高)と高嶺の花・顔の二女こと今は亡き宮城第二女子高(現 仙台二華)の界隈が舞台となっているのは誰が見ても明らかなものとなっている。エテ高に関しては、イェテ高等諸説ある。
野蛮(猿)の一高と呼ばれるルーツをこの書籍に垣間見た気がする。
(松島の蛮行や野蛮な連続窃盗事件など)
野蛮をバンカラなんて言って格好つけている輩もいるらしい。
本書の中では、××一高と××二女とされ一定の配慮がされていたが、もろわかりだろう。
日比谷高校だったり、河北新報という名前はそのまま出てきている。
この2校は、本書の時代と現在では大きく変わっている。
先ず別学ではないし、一高が東北一の進学校であったのはいつの時代の話だろうか。
余談だが、日比谷高校も当時とは進学実績が変わっている。この辺りも時代の流れを感じる。
皮肉なことに、本書の象徴的で起きる事件の根源である別学という制度が廃止されたことによって、この2校は進学校として現在息を吹き返している。
(日比谷高校も名門校として復活した。)
本書の時代背景がどこまで正しいのかはわからないが、教育や仙台のかつての文化を学ぶことができるだろう。高校で第2外国語があったことや、文系理系ではなく成績順にクラス分けをしているのは今ではないことだ。クラスの人数(6組までしかない)や当時の国立大学の評価等々も知ることができた。
話としては、世間で一目置かれる名門校で自由を謳歌する男子高校生たちの青春物語である。そして、その自由は実は大人たちによって守られていたという、若者向けを対象にした本というだけではなく、教育や社会の在り方を大人たちに考えさせるものとなっている。男子高校生たちの行いは全くもって推奨できるものではない。当時においても少数派であったことだろう。実際に、本書の中で一高は成績順にクラス分けされ、1組が一番良く、6組が最も悪いが、6組の生徒しか登場しない。主人公たちは高校3年生だが、受験勉強の話はほとんど出てこない。まぁ小説だから、大いに盛ってユーモア溢れた物語にしたのだろう。登場人物は、主人公は直ぐに妄想の世界に飛ぶことができる想像力に富んだ人物であったり、東京の名門校から転校してきたハンサムボーイであったりと個性豊かな人物が多い。
特に印象に残っているセリフは、主人公の稔が日比谷高校から転校してきて間もない渡部俊介に対して仙台はどうだいと聞くために
「此処には杜の都という別名があって、そのうどこにも緑が・・・・・・・」と言ったときに、俊介が
「ないじゃないか」「東京の方がまだずっと緑が多いや。この町はなんだか薄汚いぜ」
と返したセリフだ。これは前々から私も思っていることで、どこに緑があるのだろうか?特に中心部には少ない。
東京のように都会の一等地に木々に囲まれた大きな公園や神社があるわけでもない。
他所の人は、松島や蔵王も仙台だと思っているらしく自然豊かと評する場合がある。
物は言いようで単に緑しかないだろという意味で杜の都と呼ばれていると解している。
今でこそ東西線があるから、一高前や青葉山、八木山の方に行きやすくなったが、
それまでは仙台の中心地は狭く薄汚く見えていたかもしれない。
東日本大震災後に仙台駅周辺は大分発展し、薄汚さはなくなり綺麗になったと私は思っている。
これは著者の井上ひさしが外に出て思ったことをそのまま書いたのではないかと推測する。
最近の仙台では、開発の為に木々を伐採する動きが目立っている。
仙台市よ、ちゃんと整備しようぜ!
最終的に、最重要な登場人物はチョロ松こと一高の校長先生である。教育者の鑑として書かれている。こういう教育者がいなくなってしまったということを本書では書きたかったのだろう。現在でも宮城県では、生徒に自主性を重んじ、制服がないなど自由な校風を持った伝統校は多くある。しかしながら、自由の責任は自分で取れといった、言い換えれば放任主義である。大人が責任をとるなんて粋なことをする教育者はいるのだろうか。例えば、現在宮城県の高校入試はまた大幅に変わる。前期と後期に入学試験を分けたのに、過度に生徒に負担をかけるものとしてこの仕組みを失くすことが決まった。生徒に過度に負担をかけた責任を誰か取ったのだろうか。隠蔽や箝口令を出すなど、保身に走る例が最近特に多く見受けられる。
この問題児である6組の生徒たちは、このような教育者と出会い、成長していくということが書いてあったと思う。
この後、この生徒たちがどうなっていくのかが非常に気になる終わり方で余韻が残り、まさに小説であった。
教育関係者にこそ一度読んでもらいたい一冊であった。
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3.おわりに
小説は小説である。時代に即さないことも多々書かれている。宮城県では、中高一貫校ができたり、進学に力を入れている私立校が増えてきたりしている。本書の時代とは大きく環境が変わり、より競争的な教育環境であろう。高校生に自由は必要だろうか。生徒に全ての判断をさせ自己責任とすることが、自由と言えるのかと考えさせられた。
また、思っていた時代背景とは違っていた。今よりも大学への進学率は大分低かった時代で、就職等の決断を早く決めなければならなかったはずである。しかしながら、今よりも「ゆとり」があるかのような高校生活が描かれていた。
本書のあとがきは作者のメッセージがあり必読である。
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