井上ひさし著「モッキンポット師の後始末」の読書感想

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レビュー:★★★★☆
読んでの感想は、「時代やなぁ~」だ。
内容として「青葉繁れる」と似通ったもので、向こうは高校生編でこちらは大学生編といったところだ。続編というわけでもなく、登場人物は一人として同じ人物はいない。
今作も著者の体験を、何人かの学生に分散させ、かつ面白おかしく盛り合わせた物語だ。
時代は昭和30年辺り、そして舞台は東京、主に四ツ谷周辺だ。
貧乏学生の話であるが、衣食住に困るレベルである。下着を一着しか持っていない、食べ物を盗む、新聞紙で寒さをしのぐ、住むところがない。悲壮感は終盤の方で漂い始めるが、ユーモア溢れる笑い話にしようとする著者の意図通りコメディであり、何だかんだ学生たちは楽しんでいる。学生たちが不潔で、読んでいるこちらの体が痒くなるようだがこれも時代だろうか。

主要な登場人物は4人。
主人公は仙台の孤児院出身の小松。S大学文学部仏文科に在籍する学生である。S大学は、Sophia(上智)大学の設定であろうことは間違いないが、なぜかここだけぼかすという母校思いの愛校精神を発揮している。青葉繫れるでもそうであったが、自分(主人公)の母校はぼかすのに、他は実在の校名を出している。暁星!白百合!雙葉!
他に盟友の土田と日野。土田は熊本出身の東大医学部生、日野は札幌出身の教育(筑波)大理学部生である。
そして、もう一人が本書のタイトルでもあるモッキンポット神父である。役割は上記3人の学生の指導神父である。この指導神父というのが、一般の人にはわからないことだろう。私もよくわかっていない。本書の話の前提として、全員キリスト教徒(カトリック)であり、洗礼を受けている。モッキンポット神父はS大学文学部仏文科主任教授が本職であるが、「聖パウロ学生寮」を聖パウロ修道会から借り受け、貧乏カトリック学生に格安で住まわせ、霊的指導を行っている。大学が違う三人の接点はこの「聖パウロ学生寮」である。霊的指導はまぁ宗教的なことなので置いておいて、食べるものや着るものにすら困窮している学生にアルバイト先を斡旋するなどの生活指導もおこなっている。衣食に困っているのだから、当然寮費は滞納していて、モッキンポット神父が負担していてそれを回収したい算段もあっての斡旋である。まぁとにかく登場する学生は貧乏なのである。
前述の通り、土田は東大医学部生である。本書の昭和30年辺りはどうであったか知らないが、東大医学部といえばトップオブトップ、エリート中のエリートだ。どの時代も東大がトップであるのは変わらないだろう。本書でも土田の学生証を見せて信用を得るシーンがある。しかしながら、本書に登場する東大医学部生は貧乏を極めており、欲求に素直で羞恥心の欠片も感じられず、「これが時代が!」と思わせられる。土田に関してはご丁寧に本書の物語の後に東大附属病院の内科医になったことが書き添えられている。

本書について書く上で、宗教上の話は切り離せない。「聖パウロ学生寮」は空爆で傾き、もとより老朽化が進み、寮生たちの破廉恥な行為が決定打となり取壊しになった。その後、上記の3人の学生は住処を転々とするが、行先は全てカトリック関係の施設である。その紹介等の面倒もモッキンポット神父がしているのである。こういう風に宗教に踏み込んで書けるのは、著者ならではだし時代だろう。教徒でない者が、カトリック教徒たちを面白おかしく書いたら今ならクレームがきそうである。
3人の学生が住処を転々とするのは、最初は真面目に奉公するのだが直ぐに調子に乗り悪だくみを企てて、それがばれて追い出されるからである。この悪だくみがまた面白いのである。まぁそれは本書を読んでもらって、その度にモッキンポット神父に説教をされ悔い改める姿勢を見せるのだが直ぐに忘れる。本当に東大医学部生か?と思うが、そこがミソかもしれない。ただのごろつきが悪を繰り返すのでは何の面白味もないというか、ただの畜生である。
そして、S大とぼかすのだけでは飽き足らず、自身を重ねている小松は3人の中で一番まともで理性があるかのように終盤の方で良く書こうとしている。3人全員に言えるのは、逞しいということだ。貧しさに負けることなどなく、何かを恨んだり、打ちひしがれたりすることもなく常に何とかなると前向きに悪だくみを考える。こういう逞しさは見習いたいものだ。何でも時代のせいにしたらあかんけど、これこそが現代の日本に失われているというハングリー精神やな。彼らの将来とは今日明日の目先の生活のことである。
なお、青葉繫れると同様、勉強している話は全く出てこない。

結末を書いてしまうのは、ネタバレ極まりなく禁忌だろうか。しかし、本書を読んだ私には、禁忌と書いたのはただフリに過ぎず、結末を書くのに何の躊躇も恥じらいもなく、何ならここまで書いたんだから書くのが然も当然だとすら思っている。
モッキンポット神父は3人の学生にとある出来事で手を貸したことにより、大学の教授職を無期限休職、フランスへの帰国謹慎処分となってしまったのである。これも、青葉繫れると似たような落ちである。モッキンポット神父は学生たちには休暇を取ったと言ってこのことを黙って去っていった。悪態をつくこともなく立つ鳥跡を濁さずとはこのことだろうか。学生たちは自分たちが原因でモッキンポット神父が処分を受けたことを知らない。とどのつまり彼らは能天気なのである。モッキンポット神父はジェントルマンであり、真の求道者であり、教育者である。モッキンポット神父は途中に一度投げ出しが、結局は3人の学生の面倒を見続けた。途中で一緒に楽しんでいるシーンすらあった。これは宗教観で片づけられることではない。実際に、モッキンポット神父以外のカトリック教徒の大人たちはあっさりと3人の学生を見放しているし、モッキンポット神父が代金を支払うなどの尻拭いをしなければ警察に突き出されていた。我が子のように苦楽を共にしたという印象だった。圧倒的に楽が少なかったかもしれないが、きっと本当に恨んだりはしていないだろうなというのは伝わってきた。著者の自己美化で小松は、モッキンポット神父への感謝を抱いている記述があったが、他の2人は何とも思っていないようであった。きっと、モッキンポット神父がいなくなった後も、この2人は変わっていないだろう。そして、小松も直ぐに流され結局3人で楽しく逞しく変わらない日々を過ごすのだろう。逆に、そちらの方が清々しいし、ユーモアが貫徹している。世話を焼いてくれる師、気の合う仲間と過ごす学生時代はさぞ楽しいことだろうと思わせられた。これは羨望の感情だ。とはいえ、本書のような貧乏暮らしは耐えられないだろうけど。結局はこれも古き良き時代だなと感慨に耽る一方で、モッキンポット神父のような人格者はいつの時代も正当な社会的評価(主に出世)を受けるのは難しいという世知辛さを嘆いた。

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